平盛勝彦先生を偲ぶ

 平盛勝彦先生の2022年4月4日の逝去の報に接し、平盛先生の薫陶を受けてきたものとして在りし日の平盛先生のお姿を偲びつつ、先生のご活躍の日々に思いを馳せたいと思います
 平盛先生は、大学紛争真只中の1964年に京都大学を卒業され、1971年には多大学の精鋭が結集する東京女子医科大学 循環器内科に入局し、日本で最初の冠動脈疾患集中治療室(CCU)という循環器救急の第一線で多くのメンバーと質の高い診療を実践されました。1977年に国立循環器病センターが設立された当初より若き精鋭たちと共にCCUを開設され、その臨床的実践を全国へ広げました。私(野々木)がCCUのメンバーで参加したのは開設10年後でしたので、平盛先生とご一緒できたのは先生が1990年に岩手医科大学第二内科教授として赴任されるまでの3年間という短い期間でした。しかしその間、提示された課題を解決する方策を常に求められ、同時に夢を与えてくださいました。赴任された後も「CCUでの急性心筋梗塞の死亡率が5%以下になったことで満足していては駄目だ」と言い続けられ、平盛先生の「循環器救急医療のフォーカスは院外にある」とのコンセプトを厚生省循環器病委託研究として受け継ぎました。
 平盛先生は岩手医科大学に教授として赴任された後、循環器診療の先進化を行うとともに、一般市民への心肺蘇生(CPR)の啓発を県の事業として開始しました。岩手医科大学・県医師会・県庁・県消防・県警・日赤県支部などでCPR普及事業推進会議を1993年に設立し、岩手県内でのCPRをアメリカ心臓協会(AHA)の1992年版ガイドラインに基づいたものに統一しました。我が国でのCPRの全国的な統一が2001年であったことを考えると、平盛先生が牽引された岩手県全域でのAHAガイドラインに基づくCPR導入が如何に先進的であり、我が国における近代CPRの先駆けと言えるものであったかがお分かり頂けると思います。平盛先生のこのご活躍と姫路循環器病センター 河村剛史先生の兵庫県民への100万人講習は我が国におけるCPR普及活動の双璧をなすものでした。このため、お二人の活動は2012年の日本循環器学会総会でAHA会長 Tomaselli先生から「日本におけるCPR普及活動20周年」としてAHA表彰を受けられました。
 2000年前後には日本救急医療財団 心肺蘇生法委員会では、CPRの国際化や標準化を目指してわが国で統一した組織として日本蘇生協議会(JRC)の設立と国際蘇生連絡委員会(ILCOR)への参加が岡田和夫先生を中心に企画され、日本循環器学会から委員として参加されていた平盛先生はその活動に多大な貢献をされました。2000年には国際部会(現在のJRCの前身)でILCORとAHAとで作成した「国際蘇生ガイドライン2000」の翻訳に参画し、2002年にJRCが設立され、2006年のILCORへの参加へと繋がります。この平盛先生の想いとともに心肺蘇生法委員は野々木から菊地へと引き継がれ、また後に野々木はJRC 代表理事へ就任することになります。
 また時を同じくして2003年には国際標準のCPRを導入するためにJRCの構成員から10名をアメリカ(AHA)へ派遣することになり、平盛先生は日本循環器学会として野々木・菊地を推薦され、各学会・団体でのAHAトレーニングコースの開催、引き続いてその後の日本循環器学会での専門医取得時の必修コースへと繋がっていきます。
 常々、平盛先生は「皆、カテーテル治療の実践と技術向上に夢中になっているが、それで本当に人が救えているのか?心疾患で亡くなる人のほとんどは、病院にたどり着く前に亡くなっているということを知っているのか?」と問いかけ、「カテーテルを使って治療している患者だけではなく、もっと病院の外にいる患者にも目を向けなさい。病院の外で心停止となっている患者を助けるCPRの普及も、循環器内科医の立派な仕事だ」と話されていました。この言葉に感化されたお一人が京都大学の石見拓先生で、現在の石見先生の業績へと繋がっていることと思います。
 平盛先生は循環器救急・集中治療からはじまり、CPRの普及やJRC設立に直接的にも間接的にも深く関わってこられました。平盛先生の偉大な功績をここに広く皆さまにお伝えさせて頂きました。
 平盛勝彦先生のご逝去に追悼の意を表し、ご冥福をお祈りいたします。

2022年4月12日

日本蘇生協議会 代表理事               野々木 宏

日本救急医療財団 心肺蘇生法委員会委員(日本循環器学会)菊地 研

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